目覚まし機世界旅行
名雪の場合
思うのだが、物語はいつだって唐突だ。
だから、目覚ましの声で始まるこんな物語も唐突だった。
「あさ〜朝だよ〜朝ごはんを食べてヴェネツィアに行くよ〜」
「なにぃぃぃぃぃ!!」
すごい勢いで飛び起きる。
大慌てで窓を開けるとそこは水の都だった。
落ち着いて部屋を見てみると部屋から自分の部屋じゃない。
「な…なんだ…これは…?」
呆然としながらも目覚ましを止めて、まだ隣に寝ている声の主を見つめる。
「うにゅ…」
まぁ、名雪に事態を説明させるという事ほど愚かしい事はない。
「うにゅ…ひどいよ…」
また、思いと言葉が一緒に出たらしい。なんとかならないだろうか…
とりあえず、名雪を起こす事にする。
「こら……」
そこで声が止まる。
待て。
何で名雪が俺のベッドで寝ている?
というか、シーツに隠されている素肌。包み込むように広がる髪。陽気な地中海の朝日に照らされたその姿に思わず見とれてしまった。
うん…悪くはない。
このまま堪能していたいが、そろそろ名雪を起こさないと。
「こら。起きろ。名雪」
ゆさゆさゆさ。
「うぉ〜地震だぉ〜」
「それを言うなら船酔いだ」
「うにゅ…?…ふなよい…??」
聞きなれない言葉を聞いたからだろう。うっすらと目を開ける。
「おら。起きてみろ名雪。お前がいったヴェネツィアだぞ」
抱きかかえて窓辺の景色を見せてあげる。
驚きと興奮でこの万年眠り姫が飛び起きるというヴェネツィアの景色より珍しい光景を目にしながら、名雪に向かって声をかける。
「これはどういうわけだ?名雪……?」
「わからないよ…」
名雪はベッドの上にある目覚ましを手に取る。
「というか、何故ヴェネツィアなんだ?」
シーツで胸を隠しながら首をかしげる名雪。またそれが色っぽくて、思わず視線をそらしてしまう。
「多分…昨日のテレビでなんとなく……」
「……そうか……」
地中海の乾いた風がやさしく名雪の髪をなでる。
シーツで裸身を隠して風に髪をなびかせる名雪。
「どうしたの?祐一?」
「いやな…唐突な事態に戸惑っているだけだ…」
とりあえず、考えるのはやめよう。それ以上にこの街を見てみたいという好奇心を俺も名雪も押さえきれそうになかった。
「とりあえず、朝ご飯を食べるか?名雪」
「うん!」
出て行こうとして二人とも裸であることに気づいたのは扉を開ける前だったのが幸いだったと思おう。
ぐぉ…。
「というか…どうして、私達ここにいるの?」
「しらん」
モーニングコーヒーを飲みながら話すがこのコーヒーがまたうまい。
名雪はいつものようにトーストにイチゴジャム。
二人ともイタリア語なんぞ話せはしないが、それはそれジェスチャーとはったりと度胸で。
相手も人間である以上、以外にそれで事足りる。
ちなみに、財布の中の日本円はホテルの両替コーナーでユーロに変換してある。
これでフランスやドイツですら使えるのだから欧州統合も旅行者にとっては大歓迎だったりする。
「たしか、二人とも祐一の部屋で寝ていたよね」
「ああ。で、あの目覚ましで目が覚めたら…」
眼下の光景を見つめる。
青い海に白いカゴメ。運河には水が溢れ、ゴンドラがゆっくりと行き交う光景。
まぁ、こんな非日常もいいのかもしれない。
いくつもあったらたまらないが。
「さて、これからどうする?」
「せっかくだから、街に出てみようよ」
名雪の言葉に俺は笑いながら軽く首をふる。
「ここじゃ、出てみるじゃなくて乗って見るだろ」
「うわぁ〜すごいよ〜♪」
ゴンドラの前ではしゃぐ名雪。
俺はそんな名雪がいとおしいと同時に、この街ののんびりとした雰囲気がとても心地よいと思った。
聖マルコ広場からゆったりとゴンドラに揺られながらゴンドラは一度海のほうに出る。
「祐一。見てよ〜」
名雪の弾んだ声につられてその方を見ると、『アドリア海の女王』と歌われた彼女の美しさが二人を魅了する。
澄んだ青い空。シンメトリーに揺れるほど澄んだ海。そしてその間に優しくたたずむ優雅な建物達。
それを二人とも飽きることなく見つめ続けた。
「ねぇねぇ…これ…どうかな?」
名雪が手にとっているのは年代者のレースのハンカチ。ただ、ほつれも無ければその薄いベージュ色も色あせていない。
骨董品屋にはいろいろなものがあった。
せっかく来たのからというわけで何か記念にと土産物屋を覗いたが、そこは全世界何処にでもあるような店だったので、骨董品屋のほうに二人して来ている。
そこには、このヴェネツィアの栄光の歴史がつまっていた。
日本では英語表記で「ベニス」と呼ばれる事が多いこの街は、かつて地中海交易を独占し流行の発信地だったという事は帰ってから調べた事だが、そこにあるものの高貴さはすぐに感じ取れた。
俺は俺で有名なヴェネツィアガラスで作られたペアのワイングラスを手にとる。
ワインを飲むわけではないが、これで名雪とワインを飲んでいいかもというにさせたのも、いい物が持つ無言の訴えに俺の心の琴線が触れたからだろう。
ホテルに帰ってこのグラスでワインを飲んでみよう。
名雪もハンカチを嬉しそうに見せびらかしながら、ヴェネツィアの石畳をはしゃいで歩いている。
「名雪」
なんとなく声をかける。少し赤くなりながら。
「なぁに?」
言うのは恥ずかしいけど…
「なんか、新婚旅行みたいだな」
けど、それを言わせるぐらい名雪がいとおしくて…
「祐一…」
立ち止まり、夕日に染まって俺を見つめる名雪を絵にしてしまうこの街が好きになっていた。
「じゃあ、新婚旅行にまたここに来ようね♪」
「ああ。また来ような」
雪の街の名雪とはまた違った魅力を俺に見せてくれた名雪は嬉しそうに返事をしただけたった。
「うん!」
「あさ〜朝だよ〜朝ご飯を食べて学校にいくよ〜」
いつもの目覚ましを止めるとそこは俺の部屋だった。
当然、名雪も隣に居る。
「おい。名雪。起きろ」
ゆさゆさゆさ。
「うにゅ…船酔い…だぉ〜」
思わず笑ってしまう。
あのヴェネツィアは夢だったのだろうか?
と、机の上にあの骨董品屋の包み紙が二つ。
一つはレースのハンカチ。一つはヴェネツィアガラスで作られたペアのワイングラスだろう。
深く考えるのをやめて窓を開ける。
いつもの雪の街の光景が広がり、まだ冷たい空気が部屋に入り込む。
「ああ。また行こうな。名雪…」
ぽつりと呟いて俺達はまた日常に帰ってゆく。
数年後。ヴェネツィアに降り立った一組の新婚カップルの物語はまた別のお話。